ラテン語の初歩

初歩


以下は、学生に配付した小冊子(-1999)に書いた文章を手直ししたものです。『初歩の・・・・』『・・・・の初歩』という言葉はよく聞かれますので、後者の「の初歩」を繰り返しただけです。

そういえば『初歩のラジオ』という月刊誌があって、よくラジオやアンプを作ったものでした・・・・


目 次
  最初に

  「初歩の」ための参考図書

第1章 ラテン語について

口語でないラテン語 ・・・・・・・・ 5
英語との比較
ラテン語の使われ方──ラテン文学古典期 ・・・・・・・・ 6
最初はギリシア語
ラテン語の使われ方──ラテン教父 ・・・・・・・・ 7
ラテン語一語だけで世界を二分した? ・・・・・・・・ 8
カトリック教会とラテン語
スコラ学 ・・・・・・・・ 9
ギリシア哲学のラテン語による翻訳 ・・・・・・・・10
近代以降のラテン語
一語で「我思う」 ・・・・・・・・11
格変化とは? ・・・・・・・・12

第2章 例文から学ぶラテン語文法の基礎の基礎

A fonte「泉から」 ──名詞の格変化 ・・・・・・・・14
A fonte puro「清い泉からは」 ──形容詞「性・数・格」 ・・・・・・・・15
pura aqua.「清い水が」 ・・・・・・・・17
defluit「流れ出る」 ──動詞 ・・・・・・・・18
(1)動詞の「人称・数」
(2)辞書から知る動詞のデータ
(3)活用のタイプ ・・・・・・・・19
(4)態 ・・・・・・・・20
(5)法
(6)時制
(7)人称・数

第3章 よく理解するための蛇足

格変化 ・・・・・・・・22
カンシなしにカンシて
応用の応用 ・・・・・・・・23
態・法




最初に

 大学での「ラテン語氈vの講義の参考資料としてこの小冊子を作りました。
 私が担当している「ラテン語氈vは、ラテン語文法の基礎的な理解の習熟を目標にしています。しかし、それまで学習してきた英語という言語とのギャップのせいか、その目標は人によってまだ高いものなのかもしれません。
 それで、大学に入学して間もない大学生に、なるべく早くラテン語の特徴を掴んでもらうことを目標につくったのがこの資料です。これはまったく基礎的、しかも文法のごく最初の部分だけですから、せいぜい一ヶ月程度で理解しおえたら後は捨ててしまって構わないようなものです。逆に、「なんだ、こんなこと判ってらぁ」というようなものも含まれていると思います。
 ついでに「あれもこれも」と文章を入れていった結果、本書の内容からみた構成は次のようになりました。
第1章 ・・・・ラテン語の簡単な背景について
第2章 ・・・・ラテン語例文の解説
第3章 ・・・・ラテン語文法用語(若干)
 第1章は、時間があれば一般常識的な知識として理解しておけばよいのではないでしょうか。
 第2章は、丁寧に馬鹿が付くくらいに親切にラテン語例文を解説したもので、全く初めてラテン語に接する人にもラテン語の基礎の基礎(の基礎?)が判るよう考えながら書きました。これが本書のセールス・ポイントです。
 いちおう言い訳しておきますと、使用した例文は、解釈のしようによっては差別的なにおいがしますが、ちょっとした皮肉程度にとっていただきたいと思います。私個人の考え方を反映しておりませんので、誤解なきよう・・・・。
 第3章は、第2章の例文の解説に関連する範囲の文法用語を少しだけ詳しく書いたものです。
 学生のニーズとしては、使用するテキストに沿った、もっと広範囲にわたってやさしく解説したものが求められているのかもしれませんが、とりあえず最初の学習の基礎を築くためにはこの程度でいいのではと思います。

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「初歩の」ための参考図書

【入門】
1. M・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社
2. 小林標『独習者のための楽しく学ぶラテン語』大学書林(1992年)

【文法】
3. 松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』東洋出版(初版1992、第3版1994)

【辞書】
4. 田中秀央『羅和辞典』研究社(初版1952年、増訂新版1966年)

 1. は、かつて講義テキストとして使用していたものです。著者が述べているように、例文を多用して「まずはラテン語に慣れさせること」が、大きな成果をあげる有力な方法だと思います。反面で、一般の日本人の学習者にとっては、文法上の説明によって原理・原則を理解しておくことは心理的にも安定感が得られ、学習効率にも影響するように思えます。とはいえ、付録の「変化表」は、@まとめ方の上手さと、A別冊のかたちにしてある点で、他の学習書よりもポイントは高いんではないかと思います。
 2. は、例文が豊富で巻末付録には例文集がまとめて掲載しています。また同じく巻末付録には「ラテン詩の韻律法」についての解説が判りやすく書かれてあります。コラムも初学者にとって興味もてるものでなかなかよいでしょう。
 3. は文法解説が詳しく丁寧で比較的扱い易いように思います。「日本図書館協会選定図書」。
 4.『羅和辞典』は、コンパクトながら、比較的簡単なラテン語原典講読には十分と思えます。
これ以外としては、それぞれの書の参考書紹介あるいは解説に詳しく列挙されていますので、そちらを参考にしてください。

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第1章 ラテン語について

口語でないラテン語
 ラテン語という言語は、現在話されていません。ヨーロッパのごく限られた地域でまだ話されることがあるといいますが、実際には一般にラテン語という場合にはそのごく少数の人間に話される言語を指すことはなく、とっくに「死語」となった言語といってよいでしょう。確かに言語はコミュニケーション手段として「話される」ことで本来の役割が果たされ、それ自体も発展し保持されて行くものです。とはいえ、現代あちこちにラテン語は「使われ」ています。口語に対する文語という区別の仕方がありますが、現代までこういう「使われ方」で残る文語もそう多くはないのではないでしょうか。

英語との比較
 大学生となった学生は、最初から英語以外の他の言語を第二外国語として接することになります。そのほとんどはいわゆるインド・ヨーロッパ語族に属し、なかでもフランス語、スペイン語、イタリア語などはラテン語から派生しています。したがってこれらの現代の諸言語は、語彙や文法においてラテン語に近いものがあります。しかし他方、古い時期のフランス語やラテン語そのものから影響を受けた英語の場合は、確かに外国語として汎用されたし多くの学生が高校まで学習してきたのですが、格変化は退化し、さまざまな言語の影響を受けるなどして発展を続けています。成句、慣用表現が発達し、個々の語義からかけ離れた意味をめまぐるしい早さで多く形成するようになります。

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ラテン語の使われ方──ラテン文学古典期
 ではラテン語は、現在どのようなところに見出すことができるのでしょうか。
 まず第一に、西欧の古典文学、特に現代に遺るラテン文学の古典期の作品があげられます。ギリシア・ローマ時代からローマ帝国(西ローマ帝国)時代にかけての、さまざまな文学様式で書かれたものは、中世・近代以降も教養として用いられ愛読されました。その時代のいくつか有名はラテン語の著者をあげてみましょう。


政治家 キケロ Cicero (106-43 B.C.)
将軍・作家 カエサル Caesar (100-44 B.C.)
叙事詩人 ウェルギリウス Vergilius (70-19 B.C.)
叙事詩人 オウィディウス Ovidius (43 B.C. - A.D. 18)
悲劇作家 セネカ Seneca (c.4-65)
小説家 ペトローニウス Petronius (70-19)
歴史家 タキトゥス Tacitus (c.55-c.120)
風刺詩人 ユウェナーリウス Juvenalius (c.60-c.130)


紀元前から紀元後にかけてのギリシア・ローマ社会といえば、歴史的大事件にキリスト教の成立というのがあります。個々の言語がまだ特定の民族のものである状態から抜け切れていない時代から、大きな飛躍を迎えます。それにはローマ帝国のキリスト教の国教化が拍車をかけたであろうことは容易に想像できるでしょう。
 ユウェナーリウスの後、2世紀ころからはローマ帝国の壮絶な迫害のなかでキリスト者たち(christiani)の信仰を護り遺すために、教父(Patres ecclesiae, [英]Church Fathers)の著作が数多く書かれました。それらは単にラテン文学や(教父哲学として)哲学史の一時期を形成しただけではなく、中世以降もキリスト教にとって貴重な遺産であったのです。

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最初はギリシア語
 西ローマ帝国といえば、帝国が東西に分かれた頃はすでにキリスト教が浸透していた時代です。「ローマ」帝国とはいっても最初はギリシア語──いくつかのギリシア語方言のなかでもコイネーと呼ばれる共通語が使われていました。新約聖書はご存じのようにギリシア語で書かれています。より多くの人々にキリスト教のメッセージを伝えるためには、この時代のコイネー・ギリシア語が果たした役割は非常に大きかったのです。話は前後しますが、ギリシア語とラテン語は互いに西洋の主要な古典的言語ですが、印欧語族にともに属すとはいえ、下位の分類(語派)では異なるもの同士のようです。そしてローマ人が文化など多方面においてギリシアを模範としてきたことを考えても、歴史的にまずギリシア語が先行していたといってよいでしょう。ラテン語のアルファベットで「y」、「z」は、それぞれギリシア語の「u」ユプシロン、「z」ゼータから生まれたことにもみてとれます。

ラテン語の使われ方──ラテン教父
 初期のキリスト教思想家・指導者を前述のように「教父」といい、ローマ帝国の東西に合わせてギリシア教父(東方教父)とラテン教父(西方教父)と区別されます。そのなかでも有名な人物に『告白録([ラ]Confessiones)』や『神の国([ラ]De civitate Dei)』他多くの著作を残した聖アウグスティヌス(Augustinus, 354-430)がラテン教父に分類されています。
 彼の同時代の教父たちはラテン教父でも(アウグスティヌスの師である聖アンブロジウス Ambrosius, 340-397のように)ギリシア語を使用できる者が多かったようですが、アウグスティヌス自身はギリシア語が使えなかったともいわれます。確かに当時のキリスト教世界でオピニオン・リーダーとして活躍するにはギリシア語・ラテン語の両刀使い、今でいう「バイリンガル」であることは必要とされていたのかもしれません。しかし彼は多くの著作とその異端反駁と護教的な強力な思想・神学のゆえに最大のラテン教父と考えられ、そればかりか「ギリシア語なんぞ、なんぼのもんじゃい」といわんばかりにラテン語による記述に誇りを与えたといってもよいのではないでしょうか。彼の神学は、後述するスコラ哲学やプロテスタント教会の神学にも大きな影響を与えました。
 しかし異なる言語間で、(神学のように)微妙な内容の論議が扱われる場合には、より多くの注意が払われねばなりません。キリスト教信仰という形に表れないものを、いかにすれば共通認識できるのか、という問題はあまりにも大きな問題であり、違った形で現代に至るまでなお残されています。

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ラテン語一語だけで世界を二分した?
 ニカイア公会議(325年)などの公会議でさまざまな異説が排除されていったことは世界史ですでによく知られています。しかしおそらく排除されたもののなかには、ギリシア語のニュアンスがラテン語になく、それで相互に理解が難しかったという背景をもつものもあったかもしれません。
 その一例は、西ローマ帝国を背景とするローマ教会(カトリック教会[英]Roman Catholic Church)と、第二のローマを自称するコンスタンティノポリスを首都とした東ローマ帝国のギリシア教会(ギリシア正教会[英]Greek Orthodox Church)の教義上の相違となっている有名なフィリオクエ([ラ]Filioque)論争にみることができます。確かに両者は、唯一の神のうちに父・子(イエス・キリスト)・聖霊という三者を区別するという三位一体を唱えることでは全く共通の教義を有しています。しかし、聖霊は「父から」発出するというニカイア・コンスタンティノポリス信条にカトリック教会が「父から『および子から(Filioque)』」発出する、と一語加えたことが論争の発端になったのです。
 神学上のこの議論は、現在なお両教会の首長、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世とコンスタンティノポリス総主教バルトロメオス一世の相互対話のなかで続けられています。実際には両教会の問題はもう少し複雑な問題なのですが、しかし、ラテン語をたった一語をめぐってキリスト教世界を二分することになろうとは、当時の人々はおそらく思ってもみなかったことでしょう。
カトリック教会とラテン語
 イスラム教徒の脅威にさらされながら徐々に衰退していった東ローマ帝国(1453年滅亡)に対して、一千年近く早く滅亡した西ローマ帝国(476年滅亡)はその後、フランク族との癒着など政治的な駆け引きを上手いことやって、カトリック教会という形態で残っていったと考えることができるかもしれません。
 1054年の教会大分裂(カトリック教会と正教会の相互破門)を待つまでもなく、東方教会とはすでに絶縁状態に近いものがありましたし、交流の必要性があまり感じられる状況ではなければ、ラテン語で事足りたことでしょう。つまり、そのように(ローマ)教会がほとんどすべての権力の上層に位置していたような時代・自己完結的な世界では、真理を語るのにもラテン語だけで充分だったでしょう。日常語はともかく、ローマ・カトリック教会の典礼言語(ミサなどの公的祈りに使用された言語)であるラテン語が公用語として通用していました。
 公的な文書や論文が、ラテン語で記述されることはだいたい近代まで続きます。それで私たちはさまざまな時代の西ヨーロッパ地域の記録や公文書を調べるときには、ラテン語と接することになるのです。
 Communio(聖体拝領)・・・・パンとぶどう酒を聖別して「キリストの体と血」としてキリスト者(クリスチャン)が受け取る行為・・・・が一つの頂点となっている、最後の晩餐を再現するミサのなかで、ラテン語が使用されていたように、 Communicatio(情報伝達)にもラテン語が重要な役割を果たした、ということなのです。

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スコラ学
 中世の人々の教育の場として教会・修道院は大きな役割を担ったのですが、そこから生まれたスコラ学あるいはスコラ哲学([ラ]Scholasticismus)はいうまでもなく思想史上中世の大きな流れとして記憶されています。スコラ([ラ]Schola)とは教会・修道院付属の学院([英]School)を意味します。
 ここでも聖アウグスティヌスの影響が認められますが、彼の思想に対するギリシア哲学、特にプラトン哲学の影響はよく知られています。しかし、実はプラトン以上にアリストテレス哲学による学問的体系化のほうが大きな影響を与えています。十字軍を介して東ローマ帝国やイスラム世界と接触することで、アリストテレスの著作が知られたことが、その後の教会組織を維持する強力な思想的基盤・スコラ学を形成するきっかけをつくったのです。その中でもトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)著の『神学大全([ラ]Summa Theologiae)』は中世ラテン語著作としても著名な書です。

ギリシア哲学のラテン語による翻訳
 かくしてギリシア哲学はラテン語によって思想史のなかに再び登場することになります。これはギリシア哲学思想がラテン語によって翻訳された成功例と考えてよいでしょう。しかしラテン語によってキリスト教思想の真髄が翻訳に成功したかどうかは、別の問題として扱う必要があるでしょう。言えるのは西方のキリスト教世界のコンテクストではキリスト教思想の体系化はとりあえず成功したということです。他方で、神学が論じられ、教会で神に祈りが捧げられるときに、ラテン語はいわば「聖なる言語」としてある種の権威が与えられました。人と人とを結びつけるコミュニケーションの手段として「有用なもの」「よきもの」から、天の高みへ移ったところから、すでにその後のラテン語の運命は決められていたのかも知れません。


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近代以降のラテン語
 すでに述べたように、多くの公文書や論文はまだラテン語で書かれていました。それは西ヨーロッパ各国を越えて([ラ]inter-nationalis)情報を共有することが可能だったわけです。現代でいえばインターネットのような情報網を形成するための共通言語の役割を果たしていたといえるでしょう。
 よく知られた論文題やキーワードもラテン語でそのまま伝えられています。たとえば
Cogito ergo sum.
ご存じデカルトの『方法序説』のキーワード。かつて某ビール会社がスポンサーのテレビ番組でタモリが司会をした『新哲学大王』なるものがありました。「コギト・エルゴ・スム」──哲学のキーワードと知ってはいても、ほとんど呪文の一歩手前のところにかろうじて留まっているような印象をもたれた方も多いのではないでしょうか。言い方をかえれば、何か神秘的な響きを含みながらも哲学的・理性的輝きに昇華されている印象とでも言いましょうか(これ以上の表現は筆者自身が訳が判らなくなりそうなのでこの辺で止めましょう)・・・・。

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一語で「我思う」
 それはさておき、英訳すると I think, therefore I am. すなわち「我思う故に我在り」となります。ここで、ラテン語の単語数と英語の単語数の違いに気づかれると思います。真ん中の
   ergo →[英]therefore
に対応します。すると
   cogito →[英]I think に、
   sum →[英]I am に
それぞれ相当することになります。 cogito も sum もラテン語の動詞に分類されます。ということは正確にはそれぞれ (I) think 、(I) am に相当することになります。このようにラテン語の動詞(cogito, sum)には人称代名詞が意味としてすでに含まれています。もちろん、ラテン語にも人称代名詞はあります。
一つの動詞(cogito)をみるとそれだけで主語(人称)が判るということは、人称によって動詞が変化する、ということです。たとえば英語で一人称では I think ですが三人称では he thinks となるのに似ています。ではこのラテン語の動詞の変化はどのようになるかといいうと、

単 数

複 数
一人称 cogito (I) think cogitamus (we) think
二人称 cogitas (you) think cogitatis (you) think
三人称 cogitat (he/she/it) thinks cogitant (they)think

このように、英語では三人称単数語尾に人称語尾(各人称を示す語尾)の痕跡が残っているだけですが、ラテン語では各人称によって語尾が異なります。この動詞の人称語尾の変化(-o, -s, -t, -mus, -tis, -nt)は、必ず覚えなければなりません。英語と比べると複雑で暗記量が多い、と不安になる方もいるでしょう。しかし逆にラテン語動詞はその一語だけで、その動作が誰の動作なのか(私が「考える」のか、彼が「考える」のか)を知ることができます。・・・・think だけではだれの「考える」行為かは判りませんし、主語が不明でこれ一語では文として成り立ちません。コギトcogitoだけで「わたしが考える」という意味が成り立ちます。
 さて、英語に一般動詞とbe 動詞があるように、ラテン語にもbe 動詞にあたる esse 動詞(あるいはsum 動詞)があります。この一人称単数は先に出てきた sum =(I) am です。


単 数

複 数
一人称 sum (I) am sumus (we) are
二人称 es (you) are estis (you) are
三人称 est (he/she/it) is sunt (they)are

人称語尾の変化(-o, -s, -t, -mus, -tis, -nt)は、ここでも共通しています──ただし一人称単数を除く──。「コギト・エルゴ・スム」は、こうして「我思う、ゆえに、我在り」となるわけです。

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格変化とは?
 人称による変化のついでに、英語の代名詞の変化を思い出しましょう。

I-my-me, you-your-you, he-his-him、

複数は we-our-us, 三人称複数が they-their-them

でした。これと同時に対応する助詞を「はが、の、をに」などと覚えたのではないでしょうか。さて、これらは言うまでもなく英語の代名詞の「主格-所有格-目的格」ですが、英語では一般の名詞にはこうした格変化は特にありません。

He takes books of the library.

という英文で考えると、 books は目的語です。これが代名詞だったら──3人称複数 they を目的格に変化させて them としなければなりません。しかしこの場合のbooks は確かに目的格として文中で使われているのではありますが、形は目的格を示す変化はしていません。また、 of the library はbooks にかかり帰属・所有を示し、ここで代わりに代名詞を当てはめるならば所有格が使われます。こうして英語の場合には一般名詞は、所有格や目的格は格変化をせずに語順(たとえば上の例文ではbooks は動詞の直後)や前置詞(たとえば上の例文では of the library)によって示されています。
 それに対してラテン語では、格変化はその名詞の語尾に明らかに表されます。またこうした特徴は、ラテン語に限ったことではありません。むしろ英語の一般の名詞のように格変化がないほうが珍しいくらいです。ラテン語に限らず、第二外国語を学習すれば必ずこの格変化は覚えなくてはなりません。
 その代わりといってはなんですが、ラテン語には冠詞がありませんので、ドイツ語のように der-des-dem-den, die-der-der-die, das-des-dem-das ・・・・(定冠詞)と暗記する必要はないし、定冠詞・不定冠詞の区別もないし、その分だけ楽(らく)といえば楽です。
 また英語の目的格の用法のうち間接目的語と直接目的語に相当する格は、それぞれラテン語では与格dative(case)と対格accusative(case)で示されます。加えて、前置詞と結びついたりまたは単独で「〜によって」「〜で」などの意味の用法の「奪格」が加わり、次のような格変化をします。

格 rosa(単 数)バラ
主格 rosa バラは
属格 rosae バラの
与格 rosae バラに
対格 rosam バラを
奪格 rosa バラによって

この「rosa バラ」の場合には、奪格と主格が同じ、与格と属格が同じ形という少々ややこしい変化をするグループです。したがってrosae が属格なのか与格なのかは、その文中における文法的役割によって判ります。

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第2章 例文から学ぶラテン語文法の基礎の基礎

「ラテン語の基礎」のいくつかの文法事項を次の例文を通してしっかり学びましょう。

A fonte puro pura defluit aqua.
「清い泉からは清い水が流れ出る」

A fonte「泉から」 ──名詞の格変化
 文章の始めは英文と同様、大文字。固有名詞も同様。
 この a は前置詞で、この場合意味は[英]fromと同じです。
《格変化について》
 したがって fonte は名詞で、もとの形は fons 。それが前置詞 a がくると fonte にしなければなりません。英語では from a fountain で名詞の語形に変化がなくても、ラテン語では名詞が文章の中でどのような役割を果たすのかによって、語形が変化します(、70)。こういう語形変化を格変化といい、主格、属格・・・・等あります。
 この場合、 a という前置詞は、これが掛かる(後に続く)名詞に対して、「奪格」を要求します(、106)。つまり、 a +[奪格]という型に当てはめればいいわけです。
 「名詞の格変化」の一覧表はM・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』p.2。ここをみると名詞の格変化に5つのタイプがあります
 コツがあるにしても最終的にこれらはすべて覚えねばなりません。
 さて、 fonte について考えますと、もとの形は fonsで、辞書(または各文法書・学習書巻末「語彙表」)をみるとfons, ontis m)泉」とあります。
これはそれぞれ、

   @原形(単数主格の形)、A属格(単数)、B性、C意味、

を表しています。Bからfons は男性名詞([英]masculine)ということが判ります。別冊付録『語尾変化表』p.2 に戻りますが、 fons が第1〜第5変化のどのタイプに属するのかをまず知らねばなりません。その際に上の、A属格(単数)のデータが必要となります。つまり、 fons の場合には単数属格の形がfontis となることから「第3変化」に属することが判ります(、62)。したがってfons の単数格変化は、
   fons(主格), fontis(属格) fonti(与格), fontem(対格) fonte(奪格)
となります。
 こうして「泉(fons)から(a)」という意味のラテン語を形成するには、 a +[奪格]という型に当てはめて、 A fonte となるのです。

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A fonte puro「清い泉からは」──形容詞「性・数・格」
  A fonte の次にくっついているpuro は、「清い〜」という意味の形容詞が語形変化したものです。
 では、もとの形はどんなものかというと、辞書や各文法書巻末の「語彙表」でみると、
   purus, a, um  adi. 清い」
となっています。名詞の

   fons, ontis m)泉」

と比べると性を表す項目がない代わりに、 a, um というのがついています。 adi. adiectivus ([英]adjective) 形容詞の意味です。
 結論からいえば、形容詞の場合、その形容詞が掛かる名詞の固有の性(fons に掛かるなら男性)に合わせて語形を男性用・女性用・中性用に変化させるのです。
purus, a, um
すなわちpurus, pura, purumは、それぞれ単数主格の、@男性、A女性、B中性、の形を表しているのです。ですからたとえば、
   「男」vir(m)、「女」femina(f)、「つの角」 cornu (n)、
にそれぞれ「清い」という形容詞がつく場合には、
「清い男」はpurus vir、「清い女」はpura femina、
「清いつの角」はpurum cornu、
となります。それで、「清い泉」というラテン語は、purus fons となります。
 しかし、さきほどみたように、名詞は格変化をします。purus fons は主格になっていますから「清い泉・・・・」という意味になります。この形容詞purus は、名詞 fons の格(主格)に合わせて主格の形になっているのです(M・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』p.3。「第1、2変化に基づく形容詞」参照)。形容詞はこのように、名詞の「性」ばかりでなく「格」に合わせて変化するのですします。たとえば、も「清い泉の水は・・・・」というラテン語を形成するには、「泉のfontis 」という名詞の格(属格)に合わせて、 purus も属格にしなければなりません。
 別冊付録『語尾変化表』p.3。「第1、2変化に基づく形容詞」に「良い bonus」の変化があります。「purus, a, um」はこの「bonus, a, um」のタイプの変化をしますから、
形容詞 purus の属格はpuri
ということになります。よって、「水aqua」という名詞を使って「清い泉の水は・・・・」は、 puri fontis aqua ... ということになります。では、もしも
pura fontis aqua ...
とした場合、どのような意味になるでしょうか。 pura という形容詞は女性主格の形ですから、この場合では名詞aqua (f) に掛かっていると考えることができます。したがって、「泉の清い水は・・・・」となります。
 形容詞が名詞の文法的な性格に合わせるのは、「性」「格」だけでなく「数」つまり単数か複数かにも合わせなければなりません。
 「清い泉は purus fons 」が、「清いもろもろの泉は」と複数になった場合には、
puri fontes
(puri: 形容詞男性・主格・単数、 fontes: 名詞男性・主格・単数
となります。
 さらに「清いもろもろの(属格)・・・・」なら、次のようになります。
purorum fontum
(purorum: 形容詞男性・属格・複数、fontum: 名詞男性・属格・複数)
 このように形容詞はその「性」「数」「格」を、掛かる名詞の「性」「数」「格」に合わせることになります
 さて、例文に戻ります。「清い泉から」という意味のラテン語は、「泉から a fonte」という男性・単数・奪格の名詞に「清いpurus, a, um 」という形容詞を掛けてやればよいので、男性・単数形purus の奪格形 puro がここに当てはまります。
 こうして、「清い泉から」[英]From a pure fountain という意味のラテン語は、A fonte puro ということになります。

pura aqua.「清い水が」
 このpura aqua については、前項までの知識で十分でしょう。
 aqua は、この文章の中で主語の役割を果たしています。したがって格は主格です。 pura はこのaqua に掛かって「清い水が」[英]pure water という意味のラテン語はこうして pura aqua となります。
 語順が自由なため、たまたま動詞defluit が間に入った形になっています。

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defluit「流れ出る」 ──動詞
 さて、最後に残ったのは動詞です。
 格言(たとえば メEx oriente lux, ex occidente lex.モ 光は東方より、法は西方より)などは別ですが通常は文章としては動詞がなければドウシようもないのです。
 さて、ダジャレを言ってまで強調するにはわけがあります。ラテン語では動詞だけで文章(平叙文)が成立します。文章というものを主部と述部に分けるならば、動詞一つだけでその両方を表現しているというスグレものなのです。

(1)動詞の「人称・数」
 開店激安大安売りなどの広告に
   来た! 見た!! 買った!!!
と文字が躍っていても不思議でないですね。
 このオリジナルは、かつてカエサルがポントス攻略に成功したときに元老院に報告した有名なことば、
「来た、見た、勝った」
です。この言葉は、日本語で聞いた限りでは主語がないので──誰が?──ということは判りません。これに対して、ラテン語原文では、やはり動詞が3つ並べられただけなのですが、
   Veni, vidi, vici.
となっています。ラテン語ではこれだけで、
「(私が)来た、(私が)見た、(私が)勝った」
ということが判ります。それは動詞の語尾活用が、完了(または過去)一人称単数だからです(、210, 、212)。
 こうしてラテン語の動詞は、語尾活用によって、その動作の主体を示す「人称」「数」という要素を表しています(、46 参照)。


(2)辞書から知る動詞のデータ
Veni, vidi, vici. についてみれば、これらは「過去」時制ですが、こうした時制についての情報はどのようにして知ることができるのでしょうか。
 ここでまず例文に戻りましょう。
  defluit「流れ出る」という動詞のなかに、「人称」「数」が含まれていることになりますが、まずこの動詞の原形にさかのぼって考えてみましょう。
 動詞 defluit を辞書で探すと、そのままのスペルでは出ていません。辞書に次のように表記され各々の項目の意味は、

defluo, ere, fluxi, fluxum v.n. 流れる」

@

A

B

C

D

E
defluo defluere fluxi fluxum v.n. 流れる
何を示すか 原形 不定詞 過去形 目的分詞 動詞の種類 語義
文法上の性格 能動態・直接法・現在  1人称・単数

能動態・不定法・現在

能動態・直接法・過去  1人称・単数 自動詞

 辞書などでの動詞の見出し語は、一人称・単数の形、正確にいえば、「能動態・直接法・現在の一人称・単数」の形で出ていることになります(@)。つまり正確にいえば、動詞には「人称・数」の他に「態・法・時制」といった文法的次元があることになります。これは追々学ぶことになるでしょう。
 さて、前項でみたVeni, vidi, vici. は、それぞれ
   venio, ire, veni,ventum
   video, ere, vidi, visum
   vinco, vincere, vici victum
から知ることができますね。

(3)活用のタイプ
 さて、実際に動詞の活用表を調べる作業をすることによって、この例文の defluit「流れ出る」の文法的な位置を確認してみましょう。まずM・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』p.10-17.に第1活用〜第4活用の4つのタイプが載っています。 defluit「流れ出る」ははたしてどのタイプでしょうか?
 ある動詞が第1活用〜第4活用のどのタイプに当てはまるかは、上の第二項(A)のデータで判ります。つまり不定詞の語尾が、
   -are なら第1活用、
   -ereなら第2活用、
   -ereなら第3活用、
   -ireなら第4活用、
というふうに区別できます(、43参照)。 defluo は不定詞が defluere。-ereですから第3活用(M・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』p.14-15.参照)です。なお、第2活用 -ereの e は長母音(フォントの都合で長音符が下に付きます)で、第3活用 -ereは短母音になります。ここで第2活用と第3活用を区別できます。より正確にいえば、アクセントの位置によって区別しています。つまり第2活用では、後ろから第2の音節(paenultima)が長いのでここにアクセントがきます(例. moneo→monere モネーレ)が、第3活用ではおなじくpaenultima が短いので、さらに一つ前の音節、後ろから第3の音節(antepaenultima)にアクセントがきます(defluo → defluere デーフルエレ)。

(4)態
 英語にもありますが、受動態か、能動態かの区別です。
 第3活用では能動態はM・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』p.14、受動態はp.15。

(5)法
 「動詞の表す動作」を客観的に述べる「直接法」、主観的に述べる「接続法」、動作が命令される「命令法」などがあります。M・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』では縦割りに並んでいます。


(6)時制
 ラテン語の時制は、最大で6つあります。M・アモロス『ラテン語の学び方』南窓社、別冊付録『語尾変化表』では横割りに並んでいます。

(7)人称・数
 別冊付録『語尾変化表』 p.14(見開き左頁)のそれぞれ一マスは、「法」と「時制」によって決まる一マスです。つまり直接「法」の現在「時制」の動詞については、いちばん左上の一マスにまとめられています(下図参照)。
 この一マスのなかに「人称・数」つまり単数・複数それぞれの1人称〜3人称が、パックになってまとめられています(下図参照)。上から順番に【単数】1人称・2人称・3人称・【複数】1人称・2人称・3人称となっています。

       直説法・現在

人 称

単 数
1人称 defluo
2人称 defluis
3人称 defluit

複 数
1人称 defluimus
2人称 defluitis
3人称 defluunt


 さて、例文に使われた動詞はここにありますか?
 defluit が3人称単数なのがここで判ります。「人称・数」が3人称単数ということは、 defluit 「流れる」の主語が3人称単数「彼・彼女・それ」だということです。例文で主語は何だったでしょうか。aqua です。それで1人称でも2人称でもなく、3人称、 aqua は複数でなく単数です。
 したがって、aqua ──defluit「水が──流れる」という主語と動詞の正しい対応ができあがるのです。
 なお、動詞の語尾活用には「性」による区別はありません。つまり「〜する、した」と言うときに、男性的に「〜なのだ!」とか、女性的に「〜ですわ」などと言い述べる区別はない、ということです。ロシア語の場合には、過去形においては語尾が
-л(単数男性), -ла(単数女性), -ло(単数中性),
-ли(複数共通)
となって、性による区別がでてきますが、ラテン語にはこうしたことはありません。したがって、ラテン語では女性名詞でも男性名詞でも中性名詞でもが同じ「人称・数」(および前述の態・法・時制)が同じなら、同じ語尾になります。

 さて、こうして最初にあげた例文
A fonte puro pura defluit aqua.「清い泉からは清い水が流れ出る」
が成立している背後には、こうした文法的な背景があるのです。

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第3章 よく理解するための蛇足

格変化
 実はラテン語は、語順が(比較的)自由である、という特徴があります。
 これによって言葉のリズムが豊かになり詩を初めとするラテン文学が華開いたといっても過言ではないでしょう。
 さて、語順が英語のように原則的に決まっている場合には、聞き慣れない言葉が出てきても、文章全体のなかでその語が、主語、動詞、間接目的語・・・・等のうちどの役割をもっているのかがだいたい判ります。これに対して語順に自由が与えられると、もはや英語のようなわけにはいきません。
 したがって、格変化が重要な役割をもつことになるのです。
 格変化は、他のインド・ヨーロッパ系諸語たとえばドイツ語、フランス語にもみられます。英語には代名詞にかろうじて残っています(I-my-me, etc. )。

カンシなしにカンシて
 ドイツ語、フランス語にはさらに冠詞が名詞に付いてまわり、しかも格変化します。
 ところがラテン語では冠詞という品詞はありません。この分、楽です。
 しかし似た機能をもつものとして英語でいえばthis,that,these, those などの「指示代名詞」があります。同様に、英語でaのような不定冠詞があったように、指示の対象が定まっていないものには「不定代名詞」を用います。
 実際、ラテン語を祖語とする現代言語には、フランス語のようにラテン語の指示代名詞を冠詞として使うようになったものもあります。
 現代言語のすべてが時代を経て冠詞をもつように至ったわけではありません。ロシア語の場合は、その逆です。「スラヴ人の使徒」と称せられる9世紀の聖人、聖キュリロスと聖メトディオスという兄弟は、東ローマ帝国高官の家にテサロニキで生まれ、モラヴィアをはじめスラヴ諸国に宣教した際に、ギリシア語(冠詞をもつ)をもとにしてグラゴール文字(とキリール文字)を考案したといわれます。そこから現代のロシア語に至ったわけですが、冠詞がありません。
 ついでにロシア語との比較でいえば、格変化の数は、呼格を除いてラテン語5つに対して、ロシア語には6つの格変化があります。同じ冠詞をもたない言語ながら、格変化の数が少ない分だけ、ラテン語のほうが有利といえるのではないでしょうか。

応用の応用
 形容詞の話になると、特に語尾変化がややこしく思われるかと思います。しかしここはガマンが肝心です。ガマンした者だけが楽できるのです(人生、楽ありゃ苦もあるさ)。
 形容詞の語尾変化表をみると、「第1、第2変化名詞に基づく」ものと「第3変化名詞に基づく」ものとに分かれています。
 ということは、まず第一に「第1、第2変化名詞」と「第3変化名詞」を暗記しさえすれば、形容詞の変化はクリアできる、ということです。ほんのいくつかを注意して応用できるのです。
 こうして第1変化・第2変化・第3変化名詞の変化の応用として、形容詞の変化を覚えたら、一般の形容詞だけでなくさらに他の形容詞に相当する(準ずる)所有形容詞、分詞(現在分詞・過去分詞)、動詞的中性名詞・動詞的形容詞などの変化にも応用できます。

態・法
 「態」は、主語が動詞が示している動作を(能動的に)行う主体となっている(主語が「〜する」:能動態)のか、主語が動作を(受動的に)受ける側になっている(主語が「〜される」:受動態)かで区別する次元です。
 「動詞の表す動作」がその主語の関係で区別する「態」に対し、「動詞の表す動作」が主語の主観と無関係に客観的に叙述する「直接法」、主語の主観的次元で述べる「接続法」、動作が命令される「命令法」などが、「法」にあります。
 ラテン文学は当然として、それ以外の領域のラテン語でも、接続法は非常に重要な文法事項となります。

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